與家康、景勝、三成之對比

日南是怎麼看家康的,可從全篇中對他的形容詞都是「譎詐、狡猾、陰險、猾賊空前絕後」,也算是日南為了襯托主人公的優越而採取的一種對比的手法。例如,日南也拿主君景勝來襯托兼續


上杉景勝や、勇武、謙信の嗣たるに愧(は)ざるも、人に過ぎたる深謀あるに非ず。世に超えたる遠略あるに非ず。而うして部下の諸将、旗を搴(と)り将を斬る底の事業には、済済其人に乏からざるも、才、文武を兼ねて、胸に大略あり、機の臨み、変に応じ、籌を運(めぐ)らし、勝を決し、一身に兵略と政略とを該綜するに至りては、兼続の右に出づるあらず、是を以て景勝の信頼尋常に非ず。将来兼続が北陸の首脳となりて、世に推されたる、そもそも偶然ならざるを知る可し。

 

「上杉景勝,勇武不愧為謙信的繼承人,但既沒有過人的智謀、也沒有出世的遠略。他手下的部領,雖然不乏強將高人,但說到文武兼備、雄才大略、機敏運惟、集兵略與政略於一身者,無人能出兼續之右,是以景勝對其信頼非比尋常。可知兼續終成北陸之首腦,影響力推至全國,並不是偶然而成。」

 

這裏舉一個兼續兵略的例子。

 

天正11(1583AD),景勝出兵討伐反叛的新發田治長[重家],兼續於梶城西門外積堆易燃乾草,把兵分成四隊,一隊留在西門,二隊令之埋伏於南北城門外之市街中,自己帶一隊到東門之外。入夜後令西邊軍隊燃點乾草發炮作勢攻擊,敵軍中計向西側集中,兼續輕易從東門攻入。敵軍從南北側逃出者,又都被隱身於於市街的伏兵逮個正著。日南說「兼續的兵略,以此為代表」。

 

日南又說到石田三成,他認為三成和兼續有很多相似之處。在說到落水之會時:

 

「惟(おも)ふに三成は絕代の奇才、兼続は一世の俊傑、一は茶坊主より抽(ぬき)んでられて、秀吉の幕僚と為り、一は胥吏(しより)の児より擢(あ)げられて、景勝の參謀と為れり。其境遇も亦相似ずや。加之其年歯まで亦同甲にして、彼是俱似二十六歳なりしも、亦太だ奇なり謂(い)ふ可し。蓋し兼続の炯眼なる、当時群雄海内に割拠(かっきょ)し、 相争ひて相下らずと雖(いえと)も、将来諸侯を九合して、天下を一匡し、邦家を富嶽の安き置かん者は、必らず秀吉其人なる可きを洞察し、景勝を慫慂(しょうよう)して此協商を成したるならん。否(しか)らざれば、謙信の後嗣を以て、自ら負へる武勇一片の景勝をして、爾後(じご)其心を虚しくし、秀吉の節度を受けそむるに至らんや。而うして俊傑必ず俊傑を知る。兼続、三成と席を同くし、与(とも)に議論を上下して、与に利害を討究するの間に、両人の肝胆相照し、一見旧の如きの交は、早く此際に胚胎してりしならん。爾來豊杉両家の会同甫章に、三成、兼続其事に関預せざるは無く、両氏の間に時音問の使をすら絕たざりき。」

 

三成是絕代奇才、兼續為一世俊傑。一個是由奉茶小僧晉昇為秀吉的幕僚,一個是小官之子拔擢至景勝之參謀,其境遇雷同。加以年齡都是二十六歲,真是奇妙的巧合。從兼續的炯眼判斷,天下雖然群雄割據,但有朝一日能鳩合諸侯、一匡天下,安定邦家的人選,秀吉之外別無他人。因而說服景勝,同意落水之協商。否則景勝以謙信後嗣而傲世,又怎會臣服於秀吉之下?俊傑之間必然心意相通,二人同席議論討究之間,已種下日後肝膽相照、一見如故之誼。日後豐杉二家的合作提攜,全頼二人主導,而其間音訊亦不曾中斷。」

(續)

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